姓名:龐徳
字 :令明
生死年:?~219年
所属:馬騰→馬超→張魯→曹操
龐徳令明(ほうとく・れいめい)は、南安狟道の人です。
若い頃に郡の役人になりますが
西暦190年頃に馬騰(ばとう)が
羌(きょう)や氐(てい)の反乱を討つのに従軍
何度も手柄を立て校尉に昇進します。
西暦202年、曹操(そうそう)が
袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)と
戦いを開始しました。
この時、袁譚は甥の高幹(こうかん)を使い
南匈奴単于の呼廚泉(こちゅうせん)を離反させ
さらに関中の馬騰を寝返らせて
曹操を東西から挟み撃ちしようとします。
曹操は鍾繇(しょうよう)や張既(ちょうき)を派遣し馬騰を説得。
馬騰は結局、曹操に味方し馬超と龐徳を援軍として派遣します。
ここで龐徳は、高幹軍の郭援の首を斬る手柄を挙げました。
205年、曹操に服従していた高幹が再び叛きます。
弘農ではこれに呼応し張白騎(ちょうはくき)が挙兵しますが、
龐徳は張白騎を撃破し連戦連勝します。
曹操は関中軍閥の力を恐れ、
馬騰を衛尉に命じ鄴(ぎょう)へ転居することを命じます。
これに従い馬騰は一族を引き連れて鄴に向かい
龐徳は馬超と共に関中に残りました。
西暦211年、曹操が漢中の張魯(ちょうろ)を攻める軍を興すと
馬超は次は自分ではないかと恐れ、韓遂(かんすい)と手を組み
関中軍閥や羌族連合を率いて曹操に反旗を翻します。
これが潼関(どうかん)の戦いです。
龐徳も馬超に従い奮戦しますが曹操に敗北。
馬超は翌年に再起を図りますが、また敗れました。
以後、馬超は張魯を頼り曹操に抵抗しますが
やがて張魯と対立、一族の馬岱(ばたい)を連れ
龐徳を置いて劉備(りゅうび)の下に出奔します。
置き去りにされた龐徳は漢中に残留し
張魯が曹操に降伏すると共に軍門に降ります。
曹操は龐徳を厚遇し敗軍の将にも関わらず
立義将軍、関門亭侯に封じて食邑三百戸を与えました。
曹操の破格の待遇に龐徳は恩義を感じ
以後は二度と寝返りませんでした。
西暦219年、魏の侯音(こうおん)と衛開(えいかい)が
宛城で反旗を翻します。
これに乗じ関羽(かんう)も樊城に進撃を開始しました。
龐徳は侯音と衛開を斬り
曹仁(そうじん)と共に樊城で関羽に備えますが
魏の将兵は龐徳の従兄や馬超が蜀に仕えていたので
きっと龐徳は関羽に寝返るだろうと疑います。
それを知った龐徳は、
「俺は関羽を討つ!無理なら関羽に討たれよう」と宣言。
折しも樊城には雨が降り続き漢水は決壊。
船を持たない龐徳は自軍を水没させながら奮戦
遂に捕らえられますが、誓いを守り降伏を拒否して
斬首されました。