黄忠
黄忠
黄忠
黄忠
黄忠
姓名:黄忠
字 :漢升
生死年:?~220年
所属:劉表→曹操→劉備
紹介文:黄忠漢升(こうちゅう:かんしょう)は蜀の五虎将軍の一人です。
生まれた年は不詳ですが荊州南陽の出身で、荊州牧の劉表(りゅうひょう)により中郎将になり、劉表の従子の劉磐(りゅうばん)と共に長沙の攸(ゆう)県を守っています。
劉表の死後、後継者の劉琮(りゅうそう)が戦わずに曹操(そうそう)に降伏すると、黄忠は仮の行裨将軍としてそのまま長沙太守韓玄(かんげん)に仕えました。
劉備(りゅうび)が赤壁の大勝の余勢を駆って、荊州南郡を征すると黄忠は劉備に仕え、
その後、劉備の蜀入りに従い、劉璋(りゅうしょう)と戦いますが戦争においては常に先陣をつとめ敵の砦を落とし、劉備軍でもダントツの働きをしています。
その抜群の功績から黄忠は討虜将軍の拝命を受けます。
西暦219年、曹操が鄴(ぎょう)に帰った隙を突き、劉備が漢中攻略の軍を興すと黄忠も従軍し定軍山に夏侯淵(かこうえん)の軍を奇襲、
夏侯淵は歴戦の名将で将兵も強かったのですが、黄忠は矛を突き出してひたすら前進
自兵を励まし陣太鼓を叩いて天を震わせ、鬨(とき)の声は谷を動かす程でした。
こうして、ついに夏侯淵を斬り魏軍を撃破する大金星を挙げ黄忠は征西将軍に昇進します。
劉備が漢中王になると、長年の功績に報いて、関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)、馬超(ばちょう)と同列の後将軍に任命しようとしますが、諸葛亮(しょかつりょう)は「荊州で事情をしらない関羽がこれを知れば不愉快になりましょう」と心配し異を唱えます。
しかし、劉備は「その時には私が説得する」として黄忠を後将軍に叙し、爵関内侯を与え
その手柄に報いました。
こうして後将軍になった翌年、西暦220年黄忠は病死し剛侯と追諡(ついし)されました。
子である黄叙(こうじょ)は黄忠よりも先に死んでいて、養子もなく黄忠の家は絶えています。
三国志演義では、弓の名手であり老いてますます元気な人として、関羽と互角に一騎打ちを演じ、漢中攻略戦では、同じく老将とされた厳顔(げんがん)とコンビを組んで張郃(ちょうこう)と夏侯尚(かこうしょう)を撃破、
さらに史実では参加していない夷陵の戦いにも参加し、先陣を願い出るも年寄の冷や水と劉備に諭されて憤慨、部下数十名で呉の潘璋(はんしょう)の陣に斬り込んで馬忠の矢に倒れます。
黄忠は二世武将である関興(かんこう)と張苞(ちょうほう)により救助されますが、矢傷は重く戦死するという最期を迎えました。