姓名:諸葛亮
字 :孔明
生死年:181~234年
所属:劉備
紹介文:諸葛孔明(しょかつ・こうめい)は、
三国志では主役級の人物です。
徐州琅邪郡陽都が本籍地ですが、
実際にどこで生まれたかは分かりません。
母の章氏とは幼い頃に死別、父の諸葛珪(けい)も
孔明の幼少期に病死しています。
当時の慣例で、叔父である諸葛玄(げん)に率いられた孔明は、
弟、諸葛均や妹と共に、戦乱を避け移動し最後には荊州に落ち着きました。
孔明の兄、諸葛謹(きん)は、年長なので自立し別行動でした。
この荊州で、孔明は学問を積み、黄承彦(こうしょうげん)の娘を娶り、
徐庶(じょしょ)等と交流を結んでいきます。
孔明の運命が変わるのは、西暦208年、27歳の時
荊州の劉表(りゅうひょう)に身を寄せていた
傭兵隊長の劉備(りゅうび)と出会った事です。
劉備は、先に軍師として抱えた徐庶から孔明を紹介され
「チミ、呼んで来てくんない?」と横着な事を言いますが、
徐庶に「孔明はプライド高いから自分で行きなさい」と言われて
仕方なくホイホイと出かけて行きます。
孔明は、この時、
劉備元徳47歳、代表的な手柄、これと言って無しに対し、
荊州と益州を制覇して曹操(そうそう)に対抗する事や、
劉の姓を活用して漢室の血筋をPRせよと助言しています。
助言を気に入った劉備は、孔明を軍師に迎えますが、
直後に劉表が病死、後継者になった劉琮(そう)は曹操に降伏
劉備と孔明は、曹操軍の追求から逃げて江夏の劉琦(き)を頼ります。
これで、早々に暗礁に乗り上げた孔明のプランですが、
同じく、曹操の脅威を受けていた呉から魯粛(ろしゅく)がやってきて、
あれよあれよで、劉備と孫権(そんけん)の同盟が成立。
赤壁において奇跡の逆転勝利に繋がります。
戦いのドサクサで荊州南郡を手に入れた劉備は、
法正(ほうせい)や張松(ちょうしょう)の手引きで
益州の劉璋(しょう)を降伏させ益州と荊州を領有しました。
しかし、呉と魏は秘密同盟を結び
南郡の関羽(かんう)を挟撃
関羽は戦死して荊州を失います。
さらに関羽の死に激怒した劉備は、孔明の制止を無視し
呉に親征して、陸遜(りくそん)に敗北、多くの人材を失い
西暦223年、孔明に息子の劉禅(りゅうぜん)を託して病死しました。
孔明は、漢の復興のスローガンを掲げ、
五度に渡る北伐を敢行しますが、前半は曹真(そうしん)
後半は司馬懿(しばい)に阻止され
234年、五丈原において53年の生涯を閉じたのです。
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