姓名:袁術
字 :公路
生死年:?~220年
所属:霊帝→群雄
紹介文:袁術公路(えんじゅつこうろ)は
司空袁逢(えんほう)の子で袁紹(えんしょう)の従弟です。
若い頃は不良で侠気で名前が轟いていましたが改心し
孝廉に挙げられて政界デビューします。
189年、袁術は外戚何進(かしん)の部下として
袁紹と共に汚職の根源、宦官を武力で排除しようと計画。
しかし何進は行動を起こせず逆に暗殺されます。
怒った袁紹は兵を後宮に入れて宦官を皆殺しにし
袁術も虎賁兵を率いて南宮の門を焼きました。
混乱をつき董卓(とうたく)が洛陽に入城すると
少帝を廃して陳留王を即位させ
袁術を後将軍に任命しようとします。
悪名が残る事を恐れた袁術は南陽に脱出
この時、孫堅(そんけん)が
南陽太守の張咨(ちょうし)を殺害
太守の地位が空位になります。
南陽は袁氏の故郷であり、群民は袁術を推し
袁術は労せず太守に就任、孫堅を配下にしました。
190年、袁術は袁紹が興した反董卓連合軍に参加
戦争に消極的な連合軍諸侯の中、孫堅が大活躍し、
陽人の戦いで呂布(りょふ)を撃破するなど貢献します。
しかし董卓が洛陽を焼いて長安に引きこもると
反董卓連合軍の士気は低下、諸侯は利害対立で去り
袁術も袁紹と対立を起こし連合軍は瓦解します。
袁紹との仲はさらにこじれ、
袁紹は劉表(りゅうひょう)
曹操(そうそう)と組んで袁術を攻撃。
袁術は負けじと公孫瓚(こうそんさん)や
陶謙(とうけん)を引き込み戦いますが、
その途中、部下の孫堅が劉表攻めの最中に
伏兵により殺害されました。
193年、袁術は曹操を討とうと匡亭に出撃しますが
曹操の指揮に翻弄されて大敗、さらに糧道を劉表に抑えられ
やむなく南陽を捨てて長江を越えて揚州に入り、
寿春を根拠地にしてカンバックします。
袁術は独立志向を強める陶謙を討伐し
徐州を手に入れようと画策。
部下の孫策(そんさく)には揚州で敵対する
劉繇(りゅうよう)を攻撃させます。
徐州は結局、呂布(りょふ)の領地となりますが
不可侵条約は締結でき
孫策も劉繇を撃破するなど勢力は安定します。
ここで袁術は漢王朝の命運は終わったとして
197年の正月に皇帝を自称、仲王朝を建国しました
しかし皇帝詐称は味方を減らし反発を強めます。
呂布との同盟は、陳珪(ちんけい)
陳登(ちんとう)親子の計略で破棄され、
袁術は怒って呂布と戦うも大敗、さらに部下の孫策が
江東で独立、自然災害にも祟られました。
廃墟と化した寿春を捨て、袁術は袁紹を頼ろうとしますが
199年夏、道中で病を発し死去しました。