姓名:袁紹
字 :本初
生死年:154年~202年
所属:霊帝→独立君主
紹介文: 袁紹本初(えんしょう・ほんしょ)は4代にわたって
三公という最高官僚を出した汝南袁氏の御曹司として誕生します。
幼い頃の事はハッキリしませんが、父、袁成(えんせい)を早く亡くし
当時の慣例で叔父の袁逢(えんぽう)と袁隗(えんかい)に養育されました
袁術は袁逢の子で、これが正しければ二人は従兄弟になります
袁氏の名門らしく、袁紹は幼少で郎に取り立てられ
20歳で濮陽の県令に任命され清廉という評判を受けました。
袁紹は威厳がある風貌で快活で親しみやすく人気がありました。
同時に任侠の徒とも交友し、命知らずの壮士を抱えているとして
当時、朝廷の政治を壟断していた仲常侍に警戒されてもいます。
西暦189年4月、霊帝(れいてい)が崩御
宦官勢力と外戚の何進(かしん)の間で時期皇帝を巡る争いが勃発
袁紹は何進の側につき宦官の誅殺を進言しました
結局、痛み分けの形で後継者争いでは
何進等が推す少帝劉弁(りゅうべん)が即位しますが、
袁紹や袁術(えんじゅつ)は
「宦官を誅滅しないと腐敗はなくならない」と何進を説得
しかし、何進が行動を渋っている間に
逆に仲常侍が先手を打ち何進は殺害されました
激怒した袁紹は独断で兵を動かして後宮に押し入り
宦官皆殺しの暴挙に出、少帝を抑えて権力を握ろうとしますが
仲常侍は少帝と陳留王を擁して洛陽を脱出
少帝は何進の命で洛陽に進軍中の董卓(とうたく)の手に落ち
結局、洛陽は少帝の後見人董卓の制圧下に置かれる事になります
董卓の暴虐に身の危険を感じた袁紹は洛陽を脱出しました
190年、袁紹は打倒董卓を掲げ諸侯を結集
反董卓連合軍の盟主になりますが
戦局が悪化した董卓は洛陽を焼いて西の長安に遷都
存在意義を失った連合軍は瓦解していきました。
その後の袁紹は、反目した袁術や公孫瓚(こうそんさん)と抗争
田豊(でんぽう)や沮授(そじゅ)等の軍師を得て、
徐々に北方四州を制圧、199年、公孫瓚を易京に攻め滅ぼし
最も天下に近い存在になります。
西暦200年、袁紹は献帝を擁立し
急成長した曹操(そうそう)と官渡で激突
当初は圧倒的な物量で曹操を追い詰めますが、
配下の許攸(きょゆう)が叛き食糧倉庫があった烏巣を
曹操の騎兵に焼き払われて敗北します
失意の袁紹は敗戦から二年後に喀血して病死
後継者を決めていなかった為に
袁家は袁尚派と袁譚派に分裂して内部抗争し
曹操に滅ぼされました
袁紹は才能豊かで度量もありながら
優柔不断で猜疑心が強く
優勢な国力を活かせなかったのです