姓名:荀彧
字 :文若
生死年:163~212年
所属:後漢→曹操
紹介文:荀彧文若(じゅんいく・ぶんじゃく)は正統派の清流派官僚です。
豫州潁川(えいせん)郡潁陰県という、軍師の産地出身のエリートであり、
その先祖は春秋戦国時代の思想家、荀子(じゅんし)で、荀彧も青年の頃から
王佐の才があると評価されていました。
西暦189年、26歳で孝廉に挙げられ、董卓(とうたく)支配下の
洛陽で仕官しますが、董卓の暴政に見切りをつけ、地方勤務を願い出て
任官せず、故郷の潁川に帰りました。
しかし、やがて潁川郡にも戦乱の足音が迫ると、一族に対して、
潁川から退避する事を訴えますが、荀氏一門の古老は本気にしませんでした。
荀彧は、やむなく家族だけを連れ冀州牧の韓馥(かんぷく)が迎えに来たのを
幸いに故郷を離れます。
やがて、潁川郡には李傕(りかく)の軍勢が殺到、荀氏は多くが殺されました。
荀彧が冀州につくと、韓馥は実権を袁紹(えんしょう)に奪われており
同郷の郭図(かくと)や辛評(しんぴょう)も袁紹に仕えています。
荀彧も丁重に迎えられますが、袁紹に将来性はないと見限り
袁紹の配下であり東郡の太守だった曹操(そうそう)に仕官します。
曹操は、荀彧の仕官を「我が子房が来た」と大歓迎しました。
それが西暦191年で荀彧が29歳の時でした。
その後、荀彧は程昱(ていいく)と共に陶謙(とうけん)を攻めていた
曹操の留守番をします。
途中、陳宮(ちんきゅう)が張邈(ちょうばく)を抱き込み、
呂布(りょふ)を引きこんで兗州でクーデターを起こすと
荀彧は程昱と共同し范、東阿、鄄城の三城を死守し
曹操の帰還まで持ちこたえる事に成功します。
呂布との戦の最中、戦争に飽きた曹操が、再び徐州を攻めようとすると
「虻蜂取らず」を諌め、呂布討伐を優先させました。
献帝(けんてい)が洛陽に逃げてくると、これを保護する事を進言
曹操が諸候に号令を出せる地位につけるようにし
官渡の戦いでは、袁紹の攻勢に音を挙げ帰還しようとする曹操を叱責。
やがて、烏巣焼き打ちで逆転勝利する切っ掛けを造ります。
荀彧は、曹操の為に、戯志才(ぎしさい)郭嘉(かくか)鍾繇(しょうよう)
王朗(おうろう)華歆(かきん)陳羣(ちんぐん)のような
優秀な人材を推挙して、魏の勢力範囲の拡大にも貢献しています。
しかし、赤壁の敗北後は、魏公、魏王の階段を上る曹操に
時期尚早と異を唱えて関係はギクシャクし、
西暦212年に49歳で死去しました。
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