姓名:曹休
字 :文烈
生死年:?~220年
所属:曹操→曹丕→曹叡
紹介文:曹休(そうきゅう)は字を文烈(ぶんれつ)と言い
曹操(そうそう)の族子です。
少年の頃に戦乱に遭って父を失い、父の葬儀を済ませてから
老母と共にかつて祖父が太守をしていた呉郡に渡りました。
青年になった頃、同族の曹操が挙兵したと聞き故郷に帰還。
曹操は「我が家の千里の駒なり」と曹休を褒め
息子の曹丕(そうひ)同様に大切に育てられます。
曹休も曹操の愛情に応え戦争に従軍し手柄を立て、
曹真(そうしん)と共に虎豹騎(こひょうき)の指揮官になります。
西暦218年の漢中攻防戦では、騎都尉として曹洪(そうこう)の軍事に参加
事実上の大将として劉備(りゅうび)軍の呉蘭(ごらん)や雷同(らいどう)を大破
張飛(ちょうひ)や馬超(ばちょう)を敗走させました。
その功績で長安に帰還した時に中領軍に任命されます。
曹操が死んで曹丕が魏王になっても重用は変わらず
領軍将軍、東陽亭侯に進み、夏侯惇(かこうとん)が死去すると後を継いで鎮南将軍、仮節(かせつ)、都督諸軍事に任命されます。
曹丕は夷陵(いりょう)の戦いで消耗した呉を攻め第三次濡須口の戦いが勃発。
曹休は征東大将軍として、黄節を仮され仮節鉞となり張遼(ちょうりょう)等
配下の20軍を従え洞口(どうこう)において呉の呂範(りょはん)徐盛(じょせい)、全琮(ぜんそう)等と戦います。
一時、曹休は呉の船団の暴風雨に乗じて数千人を斬首する大勝利。
しかし、呉の徐盛が盛り返して軍は大敗。
さらに別動隊の賀斉の水軍の接近を知り退却しました。
226年に曹丕が死去すると、後を継いだ曹叡(そうえい)から長平侯に封じられます。
孫呉との国境線を任され、揚州牧として活躍、多くの呉将を投降させました。
この功績で曹休は大司馬に昇進して領地を加増されます。
孫権(そんけん)は曹休を目の上の瘤と恨み、
228年に配下の周魴(しゅうほう)を使い、偽の内応の手紙で
曹休を誘い込もうとします。
その頃、呉からの投降者は多く、曹休は周魴の偽手紙を信じてしまい10万の軍勢で呉領深く皖(かん)城まで進軍します。
ここで、内応者の周魴は姿を消し、曹休は騙された事を知りますが、プライドの高い曹休は軍を引き上げる事が出来ずに
罠を張り巡らした呉の陸遜(りくそん)と石亭で対決し大敗。
王淩(おうりょう)の奮戦と賈逵(かき)の援軍により脱出しました。
助かった曹休ですが、敗戦を悔やむ事甚だしく、
やがて悪性の腫瘍を患い敗戦から数か月で病死しました。