姓名:曹丕
字 :子桓
生死年:?~220年
所属:曹操→曹丕(君主)
紹介文:曹丕子桓(そうひ・しかん)は魏の初代皇帝です。
西暦187年、曹操(そうそう)と側室の卞氏(べんし)との間に
長子として生まれた曹丕は、8歳で巧みに文章を書き騎射や剣術に長じました。
当初、曹操の後継者は正室の丁夫人の継子、曹昴(そうこう)とされていたので
曹丕は特別扱いを受ける事もなく曹家の武将として11歳から従軍しました。
しかし、197年に曹昴が戦死すると曹操は丁夫人と不仲になり離婚。
これにあわせ卞夫人が正夫人に昇格した事により曹丕は後継者となります。
ところが、曹丕には弟の曹植(そうしょく)がいて曹操は詩文に優れた
曹植を偏愛したので、元は良かった兄弟仲は悪化したそうです。
事実、曹丕は即位後、曹植を殺さなかったものの飼い殺し同然に
各地の王をたらい回しにし、決して国政に参加させませんでした。
西暦217年、曹操は曹丕を太子に指名、220年に曹操が死去すると
曹丕は後漢皇帝、献帝(けんてい)に禅譲を迫って漢を滅ぼし
魏王朝を建国して初代文帝になります。
曹丕の皇帝即位を皮切りに蜀では劉備(りゅうび)が
呉では孫権(そんけん)が皇帝に即位し、中国は三国時代に突入する事になりました。
皇帝に即位した曹丕は父、曹操が果たせなかった中華統一に執念を燃やし
西暦222年から223年にかけて呉に侵攻して失敗。
翌、224年にも10万の大軍を率いて呉に侵攻、さらに225年にも
10数万の軍勢で呉に侵攻しますがいずれも長江を越える事が出来ず惨敗。
後世に戦下手の評価を残しました。
西暦226年、曹丕は風邪から肺炎を引き起こし40歳で崩御します。
曹丕は曹操の方針を受け継ぎ、宦官の昇進を制限し豪族を遠ざけ
少数の皇帝直属の重臣を優遇するなどで皇帝権力を強化しますが、
一方で曹植と帝位を争った経験から王族に心を許さず、
小さな領地しか与えない事で勢力を削ぎました。
これは結果として曹氏を弱体化させ、司馬氏の台頭を許す遠因になります。
また性格に癖があり、気に入った人物は身分を越えて寵愛する一方で、
自身が不遇だった頃に辛く当たった人間には陰湿な復讐をしたり、
部下の失敗を笑いものにする悪癖があり、正史三国志の著者陳寿(ちんじゅ)も
「曹丕は博覧強記の学識と技芸の才能を持っていた、
これに大きな度量と公平さがあり徳を積めば、古代の賢君にも匹敵しただろう」と評し
つまりは器が小さい、徳の薄い欠陥人格者と断定しています。