姓名:周瑜
字 :公瑾
生死年:175~210年
所属:孫策→袁術→孫策→孫権
紹介文:周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)は
揚州盧江(ろこう)郡舒(じょ)県の出身です。
周氏は名家で高祖父の周栄は尚書令、
従祖父の周景、従父の周忠が
三公の一つ大尉になる程の名門でした。
その家柄に恥じず周瑜も成長すると
立派な容貌を備え美周郎と呼ばれます。
周瑜が16歳頃、孫堅(そんけん)に連れられて
孫策(そんさく)が舒県の周家の世話になります。
二人は同じ年で意気投合し
やがて断金の交わりを結びますが
ここで孫堅戦死の知らせが届きます。
孫策は周家に別れを告げ父を引き継ぎ
袁術(えんじゅつ)配下として実力をつけます。
しかし袁術が褒美の約束を破る事に失望した孫策は
独立を志向するようになります。
西暦194年孫策は劉繇(りゅうよう)討伐を志願
孫堅時代の将兵を率いて自立を果たします。
その頃、周瑜は親族の周尚が丹陽太守に任命され
周瑜は袁術のご機嫌伺いに出てきますが
そこで孫策のスカウトの手紙が届いたので
兵を率いて孫策軍に投じました。
そこへ袁術から周瑜へ仕えるように命令が出ます。
一度は寿春に戻る周瑜ですが袁術を見限り
田舎への赴任を願い出て受理され、198年頃には、
魯粛(ろしゅく)を伴い再び孫策の配下になります。
しかし、西暦200年孫策は江東制覇を目前に暗殺に倒れ
その後、孫呉は弟の孫権(そんけん)の下に纏まり
周瑜と魯粛は干された形になります。
西暦208年、袁家を滅ぼし
荊州を併合した曹操は
孫権に降伏を勧告します。
重臣、張昭(ちょうしょう)を筆頭に
多くの家臣は孫権に降伏を勧めますが
周瑜は主戦論者の魯粛と共に徹底抗戦を主張
理路整然と呉の有利と
曹操の不利を説き孫権を説得
江夏に拠っていた劉備(りゅうび)と同盟し
宿将黄蓋(こうがい)に偽りの降伏をさせ
夜半に火を付けた小船で曹操の大船団に突入し
これを焼き払い勝利します。
この赤壁の敗戦で曹操は
自分一代での天下統一を諦めます。
かくて周瑜は孫呉に返り咲きました。
周瑜は攻略の手を休めず
魏の領地江陵郡を落としますが
途中、守将曹仁(そうじん)との戦いで
矢傷を受け負傷します。
傷は深手で周瑜の健康を損ないます。
周瑜は、劉備の勢力伸長を不安に感じ
今後の為、排除しようとします。
しかし劉備を生かして使う方針の
魯粛・孫権と意見が合わず失敗しました。
周瑜は益州の劉璋(りゅうしょう)を武力で下し、
曹操と天下を二分して対決する
天下二分の計を立て出陣しますが
脇腹の矢傷が悪化、西暦210年に病死します。