敵軍に単騎で闘う趙雲(作者:みゃーぎ)
趙雲の妻・孫夫人との憩いのひととき(作者:プンち)
妻・孫夫人に殺されてもラブラブな趙雲夫婦(作者:プンち)
五虎将軍の一員に選ばれる趙雲(作者:プンち)
趙雲の記念像(作者:まつだしょうご)
姓名 :趙雲(ちょううん)
字 :子龍(しりゅう)
生死年:?~229年
所属:公孫瓚→劉備
紹介文:趙雲子龍(ちょううん・しりゅう)は冀州常山郡真定県の産まれです。
趙雲の子孫が書いた趙雲別伝によると、彼は眉目秀麗で184センチの長身、
おまけに騎兵を率いているイメージなので、世の女性にワ―キャー言われる為に
三国志の時代に産まれたのだと思います、ハハッ!
黄巾の乱後、世の中が乱れたので趙雲も義勇兵を率いて、
当時公孫瓚(こうそんさん)と袁紹(えんしょう)が敵対していた
陣営に現れて公孫瓚に味方します。
その頃、冀州の人々は多く袁紹についていたので公孫瓚は驚き、
「どうして私に味方したのだね?」と聞いてみると趙雲は、
「袁紹が善政を敷くとは思えないので消去法で・・」と真顔で言い
公孫瓚はチャールズ・ブロンソンばりの渋い顔になったそうです。
しかし、公孫瓚の陣営で趙雲は、劉備(りゅうび)と運命の出会いをします。
劉備は趙雲を一目見て気に入り、同じベッドで寝て、一緒にゴハンを食べ
共に夢を語るというスキンシップを取り友情を育みました。
そんな時、趙雲の兄が亡くなったという訃報が届きます。
兄弟孝行な趙雲は喪に服す為に公孫瓚の下を離れて常山郡に帰ります。
劉備は趙雲の為にささやかなお別れ会を開いたので、趙雲はいよいよ感激し
「御恩は決して忘れません」と言って去って行きます。
西暦200年、8年の歳月を経て趙雲は、今は袁紹の部下になっている
劉備と再会、そこで正式に劉備の配下になり、なんだか負け犬くさい
袁紹を見限り、劉備と共に荊州の劉表(りゅうひょう)の下へ去って行きます。
それから8年、劉表は病死し後継者の劉琮(りゅうそう)は曹操(そうそう)に降伏・・
荊州には怒涛の勢いで曹操が攻め込んできます。
逃げ遅れた劉備は、ロケットの要領で邪魔な妻子を放り出し遁走。
趙雲は劉備の妻子を守り敵の只中に放置されます。
しかし責任感の塊の趙雲は産まれたばかりの劉備の子、阿斗(あと)を
懐に抱いて曹操の大軍に一騎で飛びこみ必死に奮戦して
敵の追撃を振り切り、阿斗を守り抜いたのです。
これこそ、趙雲の人生、唯一の痛恨のミスで
阿斗こと劉禅(りゅうぜん)は生き残りボンクラ皇帝として蜀を滅ぼします。
劉備も劉備で「お前のせいで趙雲を失う所であった」と
阿斗を投げ捨てるというヒトデナシぶり・・
その後も趙雲は益州攻略、漢中攻略、孔明(こうめい)の北伐で手柄を立て
70歳を過ぎてから亡くなりました、ハハッ!
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