姓名:法正
字 :孝直
生死年:176年~220年
所属:劉璋→劉備
紹介文:法正孝直(ほうせい・こうちょく)は司隷扶風郡郿県の人です。
西暦196年、扶風郡で大飢饉が起きたので、法正は移動し益州に入ります。
そこで劉璋(りゅうしょう)に仕え新都県令や軍議校尉に就任しますが
重くは用いられませんでした。
法正の友達には、同じく劉璋に重く使われない張松(ちょうしょう)がいました。
二人は意気投合し劉璋をdisってストレス発散していましたが、
やがて、臆病な劉璋に漢中の張魯(ちょうろ)の脅威を煽り不安がらせ
呉に南郡からの立ち退きを迫られ崖っぷちの劉備(りゅうび)を益州に迎え
劉璋を倒そうと画策します。
法正、張松、孟達(もうたつ)のモラルハザード組が、
「漢中の張魯は殿と同族である劉備に退治してもらいましょう」と持ちかけると
生来の臆病である劉璋は乗り気になり、王累(おうるい)、黄権(こうけん)、
劉巴(りゅうは)が猛反対しても聞きいれようとはしませんでした。
法正と孟達は劉備を迎えにいき、張松は成都に残りますが、
中々行動を起こさない劉備にいら立った張松が劉備に出した手紙が、
密告により劉璋に露見、張松は殺され劉備と劉璋は交戦状態に入ります。
戦いは劉備軍が優勢に押しますが、追い詰められた劉璋の配下が焦土作戦を提案します。
食糧を現地調達に頼る劉備は青くなりますが、法正は決断力のない劉璋には
思い切った事は出来ないと断言、その通りになりました。
西暦214年、劉備軍は成都を包囲し、劉璋は降伏、法正は蜀郡大守とされます。
法正は陰険で根に持つ性格であり、蜀郡大守になると、かつて自分を侮辱した
人間を探しだし一方的に罪をきせて処刑しました。
ある人が諸葛孔明(しょかつこうめい)に法正を処罰するように進言すると
「殿が益州を手に出来たのは法正の手柄、それを考えると処罰は出来ん」と
法正の罪を黙認したと言われています。
性格はアレですが、法正は軍略家として有能で曹操(そうそう)が
許へ帰還した隙を突いて漢中を奪い取る事を劉備に進言
西暦217年に軍を起こし、219年には、定軍山の戦いで魏の元勲
夏侯淵(かこうえん)を黄忠(こうちゅう)に討たせ漢中を攻略します。
曹操は戦下手な劉備が、緻密な戦略で漢中を攻略した事を不思議がり
法正の入れ知恵だと聞くと深く納得したと言われます。
劉備が漢中王に即位すると法正は尚書令、護軍将軍に昇進しますが、
西暦220年、44歳で死去しました。