姓名:董卓
字 :仲頴
生死年:?~192年
所属:後漢
紹介文:董卓仲頴(とうたく・ちゅうえい)は、三国志史上最大の悪役です。
もちろん、覇者である以上は曹操(そうそう)だって苛烈な部分はあるのですが、
董卓のそれは、強者に容赦ないならまだしも、弱者にも容赦しないので、
その暴虐ぶりが際立つのです。
涼州隴西郡に生まれた董卓は、若い頃から大柄ではありましたが、
筋肉質で矢袋を両腰に背負って、騎乗し左右の腕で弓を放つ事が出来ました。
若い頃は、無頼を気取り、あえて周辺異民族の酋長と交友を結び
自分の飼っていた牛を殺して振る舞うなどしたので酋長の信頼を得ます。
その後は、無頼から足を洗い郡の役人として盗賊などを逮捕していましたが、
たまたま、侵入してきた胡族が略奪や住民を攫うなどしたので、
涼州刺史の成就(せいしゅう)は董卓に兵を与えると、四ケタの胡族の首を切り、
また捕虜にしたので取り立てられ、やがて羽林郎として霊帝の近衛騎兵になります。
その後、張奐(ちょうかん)の軍勢の一員として、羌族の討伐に向かい、
ここでも手柄を立て郎中になり、異民族討伐のエキスパートの名声を得ます。
広武令、蜀郡北部都尉、西域戊己校尉まで昇進してから免官となりますが、
その後も、并州刺史・河東太守を歴任し異民族と戦い続け百戦はしました。
184年には黄巾賊討伐を命じられますが、異民族とは勝手が違うのか連敗
解任されますが、翌年に韓遂(かんすい)が反乱を起こしたので復活します。
その後は、自身の兵団を維持しつつ様子見し、189年、霊帝没後、
大将軍何進(かしん)と仲常侍の間で、権力争いが起こると、
何進の要請で涼州を出て兵3000で洛陽に出発
途中、何進が仲常侍に殺され、袁紹(えんしょう)や袁術(えんじゅつ)が
報復で宦官を皆殺しにすると、少帝と陳留王を連れた段珪(だんけい)が洛陽を脱出。
董卓は幸運にも、その一行と鉢合わせし、少帝と陳留王を保護して堂々と洛陽に入城
弟の董旻(とうびん)の協力を得て、何進や何苗(かびょう)の軍勢を吸収し、
丁原(ていげん)から配下の呂布(りょふ)を買収し、少帝を独断で退位に追い込み
陳留王を献帝として即位させ、後見人として相国となり反対派を容赦なく粛清、
独裁政治を開始します。
董卓の恐怖政治に反発した袁紹が190年、反董卓連合軍を起こすと洛陽を焼き払い
長安に遷都して独裁を続けますが、192年、王允(おういん)と結託した
呂布により殺害されました。