孫権からの手紙に憤死する陸遜(作者:プンち)
部下に報酬を与える陸遜(作者:プンち)
異民族も従える陸遜(作者:プンち)
大先輩・関羽を油断させる陸遜(作者:プンち)
夷陵の戦いで火計を使う陸遜(作者:プンち)
姓名:陸遜(りくそん)
字 :伯言(はくげん)
生死年:183~245
所属:孫権(呉)
紹介文:陸遜伯言(りくそん・はくげん)は揚州呉郡呉県の人です。
陸氏は呉郡の四姓と呼ばれる名門でしたが、陸遜はその傍流なので
若い頃は、あまり知られていませんでした。
西暦194年、陸氏の統領である陸康(りくこう)は盧江の大守でしたが、
ある時、寿春のはちみつおじさん袁術(えんじゅつ)の兵糧援助を断り
機嫌を損ねた袁術は配下の孫策(そんさく)に盧江を攻撃させ盧江は陥落します。
大人が大勢討ち死にしたので、陸氏は数歳年長の陸遜が
族長代理で率いる事になります。
西暦203年、孫策の後を継いだ孫権(そんけん)が幕府を開くと
陸遜は初めて仕官します。
孫権は本家筋の陸康を討った孫策の弟ではありますが、
兄と違い名士を優遇したので気が変わったかも知れません。
当初、陸遜は文官として仕え、海昌の屯田都尉として実績を挙げ、
農業と養蚕を奨励し貧しい民に施し名声を得ます。
さらに孫呉の統治に従わず逃げている異民族を兵士として収容する事を
孫権に申し出、抵抗する異民族は戦いで撃破し二千の兵員を
増強します。
その後も陸遜は山間に割拠している異民族を討伐し、善政を敷いては
兵士になりそうな人員を呉兵としてスカウト孫呉の兵力を増強しました。
西暦219年、荊州南郡の関羽(かんう)が
魏に向かって進軍を開始します。
孫権は南郡を与えるという密約で曹操(そうそう)と手を組み背後から
関羽を攻撃する事にし、
病身の呂蒙(りょもう)が推薦した陸遜を指揮官とします。
陸遜は自分が無名である事を利用して、関羽を褒めそやす手紙を書いて
油断を誘い、関羽がほとんどの兵力を樊城と襄陽包囲に使った隙に
呂蒙と共に公安と南郡を攻め落とし孤立した関羽を戦死させます。
西暦222年、関羽の仇討に燃える蜀帝、
劉備(りゅうび)が大軍で呉を攻めます。
呂蒙亡き後、呉軍を率いた陸遜は、迎撃に逸る古参の将軍を抑えて
蜀軍にわざと負け、これを奥地まで誘いこみ、兵站が伸びきった所を
火攻めにして焼き払い劉備を敗走させました。
これによって呉将の信任を得た陸遜は西暦244年に丞相になりますが
老齢化した孫権は孫和(そんわ)と孫覇(そんは)の二人の王子を
後継者にしては廃嫡する二宮の変を引き起こし群臣は二つに割れます。
陸遜は正室の子である孫和を押しますが、孫覇派により讒言され
孫権に恨まれ、問責の手紙を何通も受け取り屈辱から憤死しました。
陸遜伯言に関するはじめての三国志の記事