姓名:程普
字 :徳謀
生死年:?~215年以前
所属:孫堅→孫策→孫権
紹介文:程普徳謀(ていふ・とくぼう)は幽州北平郡の人です。
孫堅(そんけん)・孫策(そんさく)・孫権(そんけん)の三代に仕えた古参で
呉将からは、程公(ていこう)と敬われました。
若い頃は州郡の役人をしていましたが、風貌と先見性に優れていて
社交性もあったようです。
孫堅に見込まれて部将になり、黄巾賊討伐に参加し
その後も孫堅が反董卓連合軍に加わると陽人の戦いで
呂布(りょふ)、胡軫(こしん)、華雄(かゆう)を撃破し
董卓(とうたく)が長安に退く原因を作りました。
程普はこの間、何度も野戦と攻城戦を体験し全身に傷を造りました。
孫堅が襄陽の戦いで黄祖(こうそ)の部下に射殺されると孫堅の子
孫策に従い袁術(えんじゅつ)の客将となった孫策を支え奮戦します。
その後、孫策が独立を狙い、江東の劉繇(りゅうよう)を攻撃すると従軍
劉繇を撃破追放し、程普は、兵二千人と馬五十匹を与えられます。
昔、無鉄砲な孫策が、勇み足で敵陣に踏み込み過ぎて一揆軍の
祖郎(そろう)の大軍に包囲された事がありました
程普は勇敢にも、もう一人の騎兵と敵の包囲網に外側から
大声をあげて突撃し包囲網に穴を開け孫策を脱出させました。
程普の勇猛さと冷静さはこのようなものでした。
西暦199年、袁術が病死すると旧袁術軍を吸収した
劉勲(りゅうくん)を撃破、兵員と物資、袁術の妻子などを没収しました。
その後、孫堅の仇であった江夏の黄祖討伐にも参加して手柄を立て
程普は、同僚の黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)等に先駆け
零陵太守、盪寇中郎将となります。
西暦200年、孫策が刺客に襲われて死ぬと、後継者である孫権に従い
文官の張昭(ちょうしょう)達と一致団結し孫権を支えました。
同時に会稽、呉、丹陽のうち、孫呉に従わない地域の平定していき
孫呉政権の安定に尽力しています。
西暦208年、曹操(そうそう)が攻めてくると、
程普は左右の都督として周瑜(しゅうゆ)と共に烏林において曹操を撃破
さらに勢いを得て、南郡の曹仁(そうじん)も敗走させます。
この赤壁の戦いの功績で、程普は、裨将軍、江夏太守となります。
当初、程普は年若い周瑜を軽視し折り合いが悪かったようですが、
やがて周瑜の人柄と能力を認め尊重するようになります。
周瑜が早死にすると代わって南郡大守となりますが、
劉備(りゅうび)との荊州の領有問題に決着がつくと江夏に戻り
間もなく死去しました。