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姓名:孫堅(そんけん)
字 :文台(ぶんだい)
生死年:155~192
所属:後漢→袁術
紹介文:孫堅文台(そんけん・ぶんだい)は、孫策(そんさく)
孫権(そんけん)の父であり孫呉王朝の基礎を築いた人物です。
揚州呉郡銭唐の人で孫子(そんし)の末裔ですが、本当の出自は不明。
しかし、魯粛(ろしゅく)と孫権の故事を
見ると大した身分ではないようです。
17歳の頃、父に従い銭唐県で海賊が掠奪をしているのに出くわすと
丘の上に上り大軍を指揮するような素振りで賊を騙し追い払いました。
この件は評判になり役所に召集され、仮の尉(警官)になります。
やがて司馬になった孫堅は、当時江東で起きていた宗教反乱を
次々と鎮圧、その功積で令になりますが統治の評判も良く
役人も民衆も孫堅に懐きました。
西暦184年、黄巾の乱が発生すると、
孫堅は朱儁(しゅしゅん)の配下になり
各地を転戦、黄巾の将、波才(はさい)を撃破し宛では自ら城壁を上り
城を陥落させるなど武功抜群で別府司馬に任命されます。
186年、今度は涼州で韓遂(かんすい)と辺章(へんしょう)が
反乱を起こしたので、当初、董卓(とうたく)が鎮圧にあたりますが、
オガオガ言うだけなので、朝廷は孫堅を司空張温(ちょうおん)の
配下として派遣します。
ここで、董卓は目に余る軍令違反をしたので、
孫堅は怒り張温に「産廃斬るべし」と進言しますが
董卓を恐れた張温は決断できませんでした。
辺章と韓遂は孫堅の軍を恐れて敗走しました。
西暦189年、董卓は後漢の朝廷内の空白をついて洛陽に入り、
献帝を擁して独裁者になります。
孫堅は、南陽大守の袁術(えんじゅつ)の配下として戦い、
一度は董卓軍の徐栄(じょえい)に敗れますが、袁術の援助で盛り返し、
陽人の戦いでは、呂布(りょふ)と胡軫(こしん)の連合軍を撃破し
逃げ遅れた華雄(かゆう)を縛り首にします。
董卓は孫堅の勢いに恐れをなし、懐柔しようとしますが、
即座に断られたので、洛陽を焼き払い長安に逃げました。
孫堅は暴かれた陵墓を修復し、掠奪の跡を塞いで帰還します。
孫堅は、袁術により豫州刺史に任じられていましたが、
袁紹(えんしょう)も別人を豫州に送り込み、袁術との間で抗争が激化
こうして反董卓連合軍は崩壊しました。
西暦192年、袁術は袁紹派の劉表(りゅうひょう)を討つ為
孫堅を差し向けます。
孫堅は破竹の快進撃を続け、江夏の黄祖(こうそ)を撃破、
襄陽を包囲しますが山に逃げ込んだ黄祖の残党を追い、伏兵の矢を受けて戦死しました。
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