【魏】曹休文烈(そうきゅう・ぶんれつ)
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2018
26
Dec
【魏】曹休文烈(そうきゅう・ぶんれつ)

姓名:曹休

字 :文烈

生死年:?~220年

所属:曹操→曹丕→曹叡

 

 

紹介文:曹休(そうきゅう)は字を文烈(ぶんれつ)と言い

曹操(そうそう)の族子です。

少年の頃に戦乱に遭って父を失い、父の葬儀を済ませてから

老母と共にかつて祖父が太守をしていた呉郡に渡りました。

青年になった頃、同族の曹操が挙兵したと聞き故郷に帰還。

曹操は「我が家の千里の駒なり」と曹休を褒め

息子の曹丕(そうひ)同様に大切に育てられます。

 

曹休も曹操の愛情に応え戦争に従軍し手柄を立て、

曹真(そうしん)と共に虎豹騎(こひょうき)の指揮官になります。

西暦218年の漢中攻防戦では、騎都尉として曹洪(そうこう)の軍事に参加

事実上の大将として劉備(りゅうび)軍の呉蘭(ごらん)や雷同(らいどう)を大破

張飛(ちょうひ)や馬超(ばちょう)を敗走させました。

その功績で長安に帰還した時に中領軍に任命されます。

 

曹操が死んで曹丕が魏王になっても重用は変わらず

領軍将軍、東陽亭侯に進み、夏侯惇(かこうとん)が死去すると後を継いで鎮南将軍、仮節(かせつ)、都督諸軍事に任命されます。

 

曹丕は夷陵(いりょう)の戦いで消耗した呉を攻め第三次濡須口の戦いが勃発。

曹休は征東大将軍として、黄節を仮され仮節鉞となり張遼(ちょうりょう)等

配下の20軍を従え洞口(どうこう)において呉の呂範(りょはん)徐盛(じょせい)、全琮(ぜんそう)等と戦います。

 

一時、曹休は呉の船団の暴風雨に乗じて数千人を斬首する大勝利。

しかし、呉の徐盛が盛り返して軍は大敗。

さらに別動隊の賀斉の水軍の接近を知り退却しました。

 

226年に曹丕が死去すると、後を継いだ曹叡(そうえい)から長平侯に封じられます。

孫呉との国境線を任され、揚州牧として活躍、多くの呉将を投降させました。

この功績で曹休は大司馬に昇進して領地を加増されます。

 

孫権(そんけん)は曹休を目の上の瘤と恨み、

228年に配下の周魴(しゅうほう)を使い、偽の内応の手紙で

曹休を誘い込もうとします。

その頃、呉からの投降者は多く、曹休は周魴の偽手紙を信じてしまい10万の軍勢で呉領深く皖(かん)城まで進軍します。

 

ここで、内応者の周魴は姿を消し、曹休は騙された事を知りますが、プライドの高い曹休は軍を引き上げる事が出来ずに

罠を張り巡らした呉の陸遜(りくそん)と石亭で対決し大敗。

王淩(おうりょう)の奮戦と賈逵(かき)の援軍により脱出しました。

 

助かった曹休ですが、敗戦を悔やむ事甚だしく、

やがて悪性の腫瘍を患い敗戦から数か月で病死しました。

 

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【魏】曹休文烈(そうきゅう・ぶんれつ)

曹休

姓名:曹休

字 :文烈

生死年:?~220年

所属:曹操→曹丕→曹叡

 

 

紹介文:曹休(そうきゅう)は字を文烈(ぶんれつ)と言い

曹操(そうそう)の族子です。

少年の頃に戦乱に遭って父を失い、父の葬儀を済ませてから

老母と共にかつて祖父が太守をしていた呉郡に渡りました。

青年になった頃、同族の曹操が挙兵したと聞き故郷に帰還。

曹操は「我が家の千里の駒なり」と曹休を褒め

息子の曹丕(そうひ)同様に大切に育てられます。

 

曹休も曹操の愛情に応え戦争に従軍し手柄を立て、

曹真(そうしん)と共に虎豹騎(こひょうき)の指揮官になります。

西暦218年の漢中攻防戦では、騎都尉として曹洪(そうこう)の軍事に参加

事実上の大将として劉備(りゅうび)軍の呉蘭(ごらん)や雷同(らいどう)を大破

張飛(ちょうひ)や馬超(ばちょう)を敗走させました。

その功績で長安に帰還した時に中領軍に任命されます。

 

曹操が死んで曹丕が魏王になっても重用は変わらず

領軍将軍、東陽亭侯に進み、夏侯惇(かこうとん)が死去すると後を継いで鎮南将軍、仮節(かせつ)、都督諸軍事に任命されます。

 

曹丕は夷陵(いりょう)の戦いで消耗した呉を攻め第三次濡須口の戦いが勃発。

曹休は征東大将軍として、黄節を仮され仮節鉞となり張遼(ちょうりょう)等

配下の20軍を従え洞口(どうこう)において呉の呂範(りょはん)徐盛(じょせい)、全琮(ぜんそう)等と戦います。

 

一時、曹休は呉の船団の暴風雨に乗じて数千人を斬首する大勝利。

しかし、呉の徐盛が盛り返して軍は大敗。

さらに別動隊の賀斉の水軍の接近を知り退却しました。

 

226年に曹丕が死去すると、後を継いだ曹叡(そうえい)から長平侯に封じられます。

孫呉との国境線を任され、揚州牧として活躍、多くの呉将を投降させました。

この功績で曹休は大司馬に昇進して領地を加増されます。

 

孫権(そんけん)は曹休を目の上の瘤と恨み、

228年に配下の周魴(しゅうほう)を使い、偽の内応の手紙で

曹休を誘い込もうとします。

その頃、呉からの投降者は多く、曹休は周魴の偽手紙を信じてしまい10万の軍勢で呉領深く皖(かん)城まで進軍します。

 

ここで、内応者の周魴は姿を消し、曹休は騙された事を知りますが、プライドの高い曹休は軍を引き上げる事が出来ずに

罠を張り巡らした呉の陸遜(りくそん)と石亭で対決し大敗。

王淩(おうりょう)の奮戦と賈逵(かき)の援軍により脱出しました。

 

助かった曹休ですが、敗戦を悔やむ事甚だしく、

やがて悪性の腫瘍を患い敗戦から数か月で病死しました。

 

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