姓名:皇甫嵩
字 :義真
生死年:?~195年
所属:後漢王朝
皇甫嵩義真(こうほすう・ぎしん)は、涼州安定朝那の人です。
父の皇甫節(こうほせつ)は雁門太守でした。
異民族の闊歩する辺境の生まれなので、
皇甫嵩は若くから文武両道に優れていました。
その為若くして孝廉と茂才に挙げられますが、
父が亡くなり喪に服すとして官を辞しました。
その後、大尉の陳蕃(ちんばん)、大将軍の竇武(とうぶ)に
招かれますが、これを固辞
霊帝が車を出すと断れずに北地太守になります。
その頃、朝廷は外戚と宦官の勢力争い党錮の禁が続き、
宦官が朝廷を牛耳り清流派とよばれた官僚は全て故郷に軟禁。
世には悪徳役人が満ち溢れ庶民は搾取に苦しみました。
その中で張角(ちょうかく)の黄巾党が挙兵
36万という信徒が中華の各地で
官軍を破り破竹の勢いでした。
皇甫嵩は霊帝に呼び寄せられると
党錮の禁を解除し、また宮中の銭と厩舎の軍馬を放出し、
軍の士気を高めるように進言します。
これにより、清流派官僚は復活、士気最低の官軍も、
物資の放出で持ち直し、皇甫嵩は朱儁(しゅしゅん)と共に
五校と三河の騎兵と精兵を集めて4万の軍を編成して
潁川の黄巾賊を壊滅させます。
その後、黄巾の波才に包囲され窮地に陥りますが
皇甫嵩は冷静に火攻めを使い波才を翻弄。
そこに援軍の騎都尉曹操(そうそう)が加わり勝利します。
皇甫嵩は、さらに宦官の左豊(さほう)に賄賂を送らなかった為、
讒言されて獄に繋がれた盧植(ろしょく)に代わり
広宗城で黄巾賊の副首領、張梁(ちょうりょう)
さらに張宝(ちょうほう)を破ります。
すでに張角は病死していたので、ここで黄巾の乱は終息しました。
皇甫嵩は勲功第一で八千戸の食邑を与えられ
左車騎将軍冀州牧になります。
しかし民の苦しみを知る彼は威張るどころか
冀州で収穫された作物を飢えた民衆に放出して救い
民衆に神のように崇められたそうです。
翌年、今度は辺章(へんしょう)と韓遂(かんすい)が蜂起します。
皇甫嵩は討伐に向かいますが、中常侍を批判し賄賂も拒否したので
指揮官をクビになります。
ところが後任の張温(ちょうおん)は賊を討伐できず
皇甫嵩は再登板、王国が包囲した陳倉城の解放に成功します。
ところが、この時、部下であった董卓(とうたく)の進言を
全て却下したので董卓に激しく恨まれる事になります。
西暦190年、董卓は洛陽で献帝の後見となり皇甫嵩を呼び寄せて
殺害しようとしますが、周囲の猛反対で断念しました。
董卓暗殺後、皇甫嵩は、呂布・王允政権で返り咲きますが、
その頃、病に罹り漢の行く末を案じつつ死去しました。