馬謖
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馬謖
姓名:馬謖
字 :幼常
生死年:190~228年
所属:劉備→劉禅
紹介文:馬謖幼常(ばしょく:ようじょう)は馬良(ばりょう)の弟です。
馬良には兄弟が5人いたそうでいずれも有能だったそうですが馬謖以外の兄弟の名前は不明です。
馬謖は兄の馬良が引き立てられたのと同じく登用され、劉備(りゅうび)の入蜀に従い綿竹(めんちく)令、成都令、越雟(えっすい)太守に叙されています。
馬謖の才能は常人を上回り軍略を論じる事を好み、特に諸葛亮(しょかつりょう)に愛されました。
しかし、劉備は馬謖の軍略が机上の学問である事を見抜いていて臨終の間際に諸葛亮を呼び寄せて言うには、
「馬謖の言動は実力を超えたものだ、大きな仕事を任せてはいけない、丞相、私の心を察してくれ」と馬謖を重用する事を戒めます。
ところが、諸葛亮は劉備の遺言に納得せず、馬謖を参軍に加えて引見する度に談論して、それは昼から夜にまで及びました。
劉備の死後、南中の高定(こうてい)が蜀に反旗を翻して呉と連動する様子を見せると、諸葛亮は急いで孫権(そんけん)との同盟関係を回復して、高定の援軍を断ち、馬謖をブレーンに加えて南蛮征伐を開始し短期間で平定します。
これにより諸葛亮は増々、馬謖をより信頼するようになり、第一次北伐では、魏延(ぎえん)と呉懿(ごい0を先鋒にすべしという声を抑えて馬謖を抜擢、副将に王平(おうへい)をつけて要衝の街亭に布陣させます。
ところが馬謖は「山上に布陣してはならない」という諸葛亮の命令を無視、王平が必死で諫めるのも聞かずに山上に布陣しまいました。
魏将の張郃(ちょうこう)は馬謖をあざ笑い街亭を包囲して水を断ち、その後、飢えと渇きに苦しむ馬謖軍を山上で撃破しました。
これにより北伐は失敗、諸葛亮は軍を漢中まで帰還させ軍令を破った馬謖を投獄して庶民に落として反省させようとします。
しかし、敗戦に絶望した馬謖は親友の向朗(しょうろう)の助けで脱獄を図ります。
ところが、運悪く再び捕らえられ諸葛亮は馬謖を処刑せざるを得なくなりました。
馬謖は死に臨んで
「丞相は私を我が子のように見て下さり、私は丞相を父と思ってきました。
もし、私を想って下さるなら息子には罪を及ぼさないで下さい。
そうして下さるなら地獄に行っても恨みは致しません」と言い残します。
諸葛亮は涙を流しつつ、馬謖を処刑しました。
そして、馬謖の遺言通り馬謖の孤児を以前と変わりなく遇したそうです。